細菌戦の系譜!!

731部隊人体実験はこうして拡大した隊員たちの素顔

NHKスペシャル731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜

1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!

731部隊について

731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験起こし

生理学が専門だった吉村が命じられたのは、凍傷の研究でした。当時は関東軍の兵士たちは、寒さによる凍傷に悩まされていました。

その症例と対策を探る目的で、人体実験を行っていた様子が裁判で語られていました。

ハバロフスク裁判の音声テープ731部隊軍医西俊英の証言

第一部の吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において、約零下20度くらいのところに、監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして、風を送って、その囚人の手を凍らして、凍傷を人工的に作って研究をしておるということを言いました。

そうして凍傷が人工的にできた場合は、小さな棒でその指を叩くと、板のように硬くなると吉村は言っておりました。

731の問題戦中戦後ー奈須重雄2018429

吉村寿人

戸田正三はじめ、京大東大の医学者の多くが731の仕事に係わった。そして戦後の日本医学界にも大きな影響を与えた。

731部隊で行われた人体実験細菌戦などは国家機密だったため、携わった医学者は誰一人声高に叫べず、自責の念のあるものは、自殺した。日本政府医学界は、731部隊の罪業を、いまだに反省謝罪していない!!

今の日本医学界に、この影響がないのだろうか???

清野謙治京大教授も、京都大学での愛弟子にあたる石井四郎が部隊長だった満州731部隊に対しては病理解剖の最高顧問を務め、人材確保指導などに異常なまでにてこ入れしたとされる。

清野事件

清野は、幼少の頃から考古学を趣味にしており、仕事の傍ら古人骨古文書民俗学資料などの収集に情熱を傾けていた。1938年に医学博士号を取得した直後、誠に奇妙なる精神状態のうえに収集癖が高じて、京都の古寺から教典や古文書を盗む窃盗事件を起こす。清野は逮捕され、控訴審で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受ける。このことから清野は京大を免職になったばかりか、濱田耕作京大総長も辞意を表明した。

記者会見研究者が戦争に協力するとき2018414(京都大学

1938年8人の京大研究者が731部隊に派遣される。

8人は石川太刀雄丸、岡本耕三、林一郎、田部井和、湊正男、吉村寿人、斎藤幸三郎、田中英雄

凍傷実験で有名な吉村は、日本学術振興会から研究資金が出ていた。

吉村の恩師は、正路倫之助軍医学校731部隊に指令を出していた所の嘱託。正路は1946年に、兵庫県医科大学の学長に就任する。そこに戦後、吉村、岡本、田部井が職を得る。兵庫県医科大学は、後に神戸大学医学部になる。

岡本は清野の弟子、田部井は木村の弟子だった。

戸田正三、木村簾両京大教授軍医学校嘱託は、戦後医学界として石井機関の医学者をかばったという理解は誤りで、医学界が守ろうとしたのは医学界そのものであった。医学者たちの組織犯罪常石敬一著より

戸田正三

長與は、1919年から1934年まで、東京帝国大学伝染病研究所の所長であった。1930年から長與はうつ病になっていた。

この1930年代初頭から、背陰河で人体実験が行われていた。

長與又郎

東大総長1934年〜1938年

総長退任後の1940年、満州渡航関東軍司令部や731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会等を通じ、石井四郎軍医と交流があった。

果して、長與は731部隊についてどのような思いを持ったのであろうか??

1938年昭和13年、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任。

民間情報部CIS)にSIと名乗る人物から届いた手紙には、

石井の妻が学習院院長荒木寅三郎の娘で、元陸軍大臣荒木貞夫と非常に親しく、彼から限りない助けを得ていた事実を述べている。

荒木貞夫と荒木寅三郎は、細菌戦戦争にどのように係わったのか?

1927年昭和2年石井四郎、荒木寅三郎の娘、清子と結婚する。

1928年昭和3年4月-1930年昭和5年4月、海外視察。本当に海外視察か?背陰河に行っていた可能性はないのか?

1936年昭和11年、東郷部隊が正式な部隊となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫部を編成。

荒木寅三郎荒木は、京大総長時代に、娘を石井に嫁がせた後、学習院長や枢密顧問官をに出世している。京大総長1915年〜1929年、学習院院長1929年〜1937年、1937年4月枢密院顧問に親任される。1942年、急逝。

荒木貞夫日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。

道教育の推進1938年昭和13年5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、皇道教育の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。

戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となったと証言している。

また以下の2人は731部隊の細菌戦を積極的に推し進めた中心人物ではないのか??

軍医学校長小泉は、陸相荒木貞夫の強い支持を受けていた。

1933年陸軍軍医学校校長、1934年陸軍軍医総監、陸軍省医務局長、BCG接種を実施、1941年から厚生大臣

小泉親彦

第5代伝研所長

宮川米次

1938年には国家総動員法が制定され、科学者も、戦争に協力しなければならなくなった。優秀な医学者も、戦争は加害者にしてしまう!!

731部隊で実験材料にされた人たちは、囚人ではない!!裁判にもかけられず、微罪で逮捕された人がほとんどだ!!中国は日本に侵略されたのだから、反発するのは当然だ!!

当時の日本の教育は、日本国民は1等国民、他は2等国民、とか3等国民とか呼び蔑視していた!!中国人はチャンコロと呼び、非人道的な扱いをしていた!!

笠原十九司日中戦争戦争全史下には以下の記述が見られる。

日本軍が華北で使用した生物兵器華北の民衆に深刻な犠牲をもたらした。細菌兵器使用の実態が判明しにくいので、統計は不完全であるが、日中戦争以後8年間で70回以上細菌兵器を使用したと推定され、そのうち具体的な死亡者がわかる25件では、兵士民間人47万人以上が感染して死亡した。山西省孟県における調査では、1942年から45年の間、日本軍が発射した糜爛性びらんせい毒ガス弾とチフスなどの細菌兵器により、全県16万人のうち、95が感染して病気になり、1万1千人が日本軍に殺害され、3万人近くが病死した。

731部隊員であった金子順一が戦後、東大に出した論文には、中国の6か所の地名が細菌戦の行われた場所として、書かれている。

また、戦後アメリカのフェル博士が731部隊員を尋問して作成したフェルレポートには、12か所で、細菌戦が行われたとある。

講演とつどい学問が戦争に協力する時731部隊の生体実験をめぐって

日本軍は、国際条約違反の細菌戦を大規模に行なった。しかし、日本政府は、731部隊での人体実験、細菌戦等の証拠をすべて隠蔽し、この事実を認めようとしない!!

番組では、川島清を第一部細菌研究部長としているが、第4部細菌製造部部長軍医少将の時もあった。

勿論731部隊支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!

中国にあった日本軍の陸軍病院の軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。場合によっては、日本人も実験材料にされた。

この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。そして、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。

天皇の弟秩父宮三笠宮も視察に来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??昭和天皇の責任は無いのか???

unit731

731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!大正製薬

ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。

731部隊の設計図が1枚も見つかっていない!!建築学会でも731部隊は全く無視されている!!

アピール3大学研究機関における軍事研究を阻止するために広原盛明(元京都府立大学学長)

ロ号棟の建設について設計図を出してください!!

大林組白石社長が辞任へリニア談合で事実上の引責

黒い太陽731

国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!

つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。

みんなが知るべき情報今日の物語より

日本は皇道精神の具現化のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人を虐殺した!!

目指したのは、天皇中心の世界帝国八紘一宇

教えてゲンさんより

1940年、日本軍資料

1942年、日本軍資料

次の沢田中将の記録を見ると沢田中将は細菌攻撃にかなり批判的だったことが分かります。

第13軍司令官沢田茂中将陣中記録

(自衛隊防衛研究所1942年分静岡大学名誉教授藤本治氏論文から)

8月16日

日(注大規模な細菌戦開始日を8月19日と定むる旨命令す

8月22日

午前8時半より衢州飛行場破壊の状況を視察す

25日終了の予定

それ迄の使用延べ人員約10万にして内半数は俘虜なり

ホとは細菌戦のこと

満洲天理村生琉里ふるさとの記憶

4、風間博の父が語った告白と息子の決意

あの時代のことを、少しずつ記憶に新しいところから文章に整理していくと、どんどん頭が整理されていってね

引き揚げ後は近くの亜炭鉱山で働き、作業後は父から聞いた話を記録していった。どんなに疲れても、また、父を助けて農作業に明け暮れる繁忙の季節であっても、天理村の記録を書くことを風間は怠らなかった。1人きりで、ぼろ紙に殴り書きすることもしばしばだったという。頭が整理されればされるほど、日本軍、ひいては天理教団がやったことは侵略以外の何物でもなかったと気づかされた。

父の告白によって事実を知った風間は、教団をはじめ満洲天理村を開拓した自分たちは戦争に加担した加害者として反省するよう、幾度となく教団本部に訴えた。しかし、教団が彼を相手にすることはなかった。それでもひるむことなく、彼は告発し続けた。

マルタと呼ばれた人達は、囚人ではない。色な容疑を吹っ掛けられ、捕まえられ、裁判も無しに、人体実験に供された。

4、日本軍による人体実験より

マルタにされたのは特移扱と呼ばれる取り扱いで中国各地の憲兵隊から送られてきた人たちでした。彼らは諜者スパイや思想犯人民族主義者や共産主義者の疑いをかけられて捕まった中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などで、その中にはごく普通の農民や女性子どもも含まれていました。彼彼女たちは七三一部隊からの要求に応じて各地の憲兵隊から汽車でハルビン駅へ護送され、ハルビン駅からは擬装された列車やトラックで平房の部隊の監獄へと送り込まれました。また、ハルビンソ連のスパイとして捕まったロシア人は特務機関へ回されて取り調べを受け、口を割らなかったり、二重スパイになるのを拒んだり、逃げようとした者が特移扱になりました。こうして実験材料にされ殺された人の数は3000人以上にのぼるといわれていますちなみにこの3000人という数字は、背陰河の施設や、七三一部隊以外の石井機関の施設における犠牲者の数を含んでいません。これらの施設や陸軍病院での犠牲者も含めると、総数はずっと多くなります。

新聞紙法

満洲天理村

国民精神の歌と天理教

海拉爾支部谷崎等証言2017年12月18日

731問題

731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???

国家の面子の為に、残虐な行為は隠蔽する??

黒い太陽15

機密とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。

戦前の刑法には、敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ(第85条)という規定があった。

朝枝繁春の証言

今の日本は、あの侵略戦争の事を忘れようとしているのではないか?

ある政党は、あの侵略戦争を自存自衛のための戦争などと公然と言っている!!

裕仁は、東条や陸軍に、戦争責任を押し付け、

今の政府医学界は、中国、アジア諸国で、戦争被害の後遺症に悩む人を完全に無視している!!

人体実験、遺棄毒ガス弾、炭疽菌ペスト菌等による被害者、慰安婦、空襲虐殺原爆等で被害にあった人のPTSDなど。

日本国民だって例外ではない!!

戦時中に起きた食中毒赤痢の事件事故と新宿の軍医学校731の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??

実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。

1935年昭和10年鳥取で食中毒発生4人死亡、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校西俊英

1936年昭和11年浜松で食中毒発生患者数は2250人、46人が死亡、原因ゲルトネル菌、防研嘱託731小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。

紅白の殺戮者

1937年昭和12年大牟田爆発赤痢事件患者数は12332人、712人死亡以下の事は関係ないのか?

事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故

また当時の新聞記事や調査において、

三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと

2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと

患者はまず咽喉を侵されたこと赤痢ならば咽喉がやられることはない

市内で人が次と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること

などが分かっている。

当時の時代背景として、2月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。

しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。

一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??

日本軍の毒ガス戦と軍需化学企業の戦争責任

小津安二郎は、日中戦争で野戦ガス中隊に従軍し、鬼軍曹と呼ばれていた。

小津の作品には、汚いものを排除し、美しさのこだわりがあるという。

東京物語のヒロインだった原節子は、戦意高揚映画に数多く出演している。

TokyoStory(1953)

参考陸軍軍医学校50年史1936年

陸軍軍医学校50年史1936年より

大牟田爆発赤痢事件

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

小島三郎

紅白の殺戮者昭和十一年浜松一中毒大福もち事件

作者久保親弘

紅白の殺戮者くぼちかひろ

第十三章

一五日の夕方鴨江病院から緑川衛生課長に報告があった。北野軍医正から貰った免疫血清を用いて細菌の同定を行ったところ一中生の糞便からゲルトネル氏腸炎菌が検出されたというものであった。その事実によって浜松一中で発生した食中毒と浜松の衛戍部隊で発生した食中毒とはまったく同じ原因菌によるものであることが立証された。

午後一一時静岡県衛生課は左記のような発表を行った。

今回の浜松市に於ける中毒事件に付其原因を探求した結果ゲルトネル氏腸炎菌と認むべきもの一四種中三種を選び血清学的確定試験を行いたるにゲルトネル氏腸炎菌と断定すべき菌を認めたり而して本病即ちゲルトネル氏腸炎菌に依る疾病は主として動物間に流行し人より人に接触伝染すること殆どなきものなればこの点一般は先ず安心して可なり。

今、改めて考えると、やはりこの食中毒に軍医学校の関与があったのではないか?

石井がわざわざやって来て、人為的細菌感染の有無を調べる??この食中毒のすごさから言って、普通では全くない!!軍医学校の関与が無かったのか?何で、糞便検査を一中生にはしなかったのか??

1936年にはハルピンの郊外平房に正式に関東軍防疫部731部隊が設立される。

北野政次は最初から目星をつけていたのではないか。軍医学校による原因の究明が手際よく行われたのは、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたためでだった。その頃ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、前年、鳥取県でこの菌が原因の食中毒を経験し、死者4人を出していた陸軍だけだった。浜松での食中毒の原因究明にあたった西は、鳥取でのゲルトネル菌による食中毒の解明に従事していた。西とは西俊英軍医大尉当時、後に731部隊で活躍する。

小島三郎の記述

小島三郎ウキペディア

小島三郎こじまさぶろう、1888年明治21年8月21日-1962年昭和37年9月9日は、日本の医師。医学博士。

岐阜県各務原かかみがはら市出身。

小島三郎

来歴

1888年明治21年-岐阜県羽栗郡川島村河田現各務原市川島河田町にて厳田弾之丞の三男として生まれる。

1909年明治42年-東京高等商業学校中退。第七高等学校造士館へ入学。

1912年明治45年-第7高等学校を卒業。東京帝国大学医科大学に入学。

1916年大正5年-東京帝国大学医科大学卒業。

1917年大正6年-伝染病研究所に入所。

1920年大正9年-医学博士。

1926年大正15年-細菌学、衛生研究の為、2年間ドイツへ留学。

1935年昭和10年-東京帝国大学教授に任じられる。戦時中は陸軍1644部隊にて細菌戦の研究に携わる。

1947年昭和22年-国立予防衛生研究所設立とともに副所長として就任。

1954年昭和29年-国立予防衛生研究所所長に就任。

1958年昭和33年-国立予防衛生研究所所長勇退。保健文化賞受賞。

検証中国における生体実験(美馬聡昭著より

小泉親彦と昭和天皇

一方彼は人一倍、心底、現人神(この世に人間の姿をして現れた神)天皇の崇拝者でもあった。

その天皇(昭和天皇)が、1929年11月7日陸軍軍医学校新築を祝い、陸軍軍医学校に初めて行幸した。この様子が、陸軍軍医学校五十年史に書かれているが、現代語訳すると次のとおりになる。

天皇は、9時45分に到着。学校長より陸軍軍医学校の沿革および現況について説明を受けた。その後休憩し、10時から見学を開始した。見学は第一講堂にはじまり、次いで標本室、軍陣衛生学教室および第二講堂に移られ、各室ともご熱心にご見学された。特に軍陣衛生学教室にては第一室より第九室まで各部屋とも丁寧にみられ、小泉教官の説明を熱心に聞かれた。特に兵衣、兵食における業績については、お褒めいただき、予定の時間を若干遅れた。最後に小泉は天皇と一緒に屋上まで上がったところ、朝から降っていた細雨(霧雨)がにわかに止んで、陽光が雲よりもれ、都下の風景が手に取るようにみえた。小泉教官は主要な建物の説明をした。

それに対して天皇は、いちいちうなずいていた。その後天皇は、再び便殿(天皇皇后などの休息所)に午前11時30分に入り、少し休息して11時40分に帰られた。

いつの間にか始まった石井部隊常石敬一人骨の会代表

テロリスト伊藤博文の懺悔

731部隊の前身である背陰河の部隊では、結核予防注射の人体実験が行われていた?

結核予防接種と人体実験

日本は、731部隊での研究を白日の下にさらすべきである。

1936年に起きた浜松の大福もち事件の経過

1936年5月10日浜松一中で運動会が開かれる。

5月11日午後、食中毒発病

軍医学校では5月12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。

患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず。

本当に素早い軍医学校の対応ではないか??東京から浜松は当時列車でも時間はかかっただろう。

小島三郎は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。

前年の1935年昭和10年鳥取で食中毒発生4人死亡、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校西俊英小島が防研の嘱託になった年。

果たしてこの食中毒はどのように発生したのだろうか?防疫研究室は関係していないのか??不思議なことに軍の関係者の感染者からは誰一人死亡したものが出ていない!!軍の謀略ではないのか??

陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊しついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し浜松は陸軍航空部隊のメッカとして知られるようになった。浜松陸軍衛戍病院の場合ほとんどの軍医は飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附もしくは高射砲第一聨隊附であった。

小島三郎が、防疫研究室の嘱託になり、お金をもらって研究したという事は、細菌戦に大きくかかわっていたという事だろう!!

ゲルトネル菌は、広東の8604部隊部隊で使用されたようだ。

8604部隊南支那派遣軍の防疫給水部の1課の丸山茂証言に、同僚がお粥にそれを混入して、多くの難民の中国人を殺害したという証言をしている。

三井という会社

毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤の原料を作ってニュージランドのメーカーを通じてアメリカ軍に提供されていた。アメリカの枯葉剤の3分の1は日本製だと言われている??

ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大

化学兵器とアジアー現在進行形の加害と被害を考える!!

枯葉剤の製造では、ネットには、こんな記述もある。

731部隊直系のミドリ十字を内部に組み込んだ三菱ケミカルホールディングスの前身である三菱化成は、ェトナム戦争における枯れ葉剤作戦の主役、モンサント社と組んでいたのである。

毒入り油で手料理母悔恨知らなかったごめんね許して家族全員発症カネミ油症50年の証言

カネミ油症事件

カネミ油症事件ですが、カネミ倉庫とカネカに責任はあるのですか?

PCBは三井グループのカネカが製造していた。

PCBポリ塩化ビフェニル:鐘淵化学工業製造

2004年平成16年鐘淵化学工業株式会社から株式会社カネカに商号変更。

横浜マンション傾き問題、施工3社を提訴三井不動産

護衛艦などを作る!!軍需会社!!

三井造船が建造した船舶

イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち

萩野昇戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?

2015年

偉人医萩野昇

萩野昇富山のシュァイツァー

富山平野の中央部を流れる神通川は昔から神が通る川として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか毒の通る川に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。

予期せぬアメリカの評価

萩野はアメリカからの研究費で動物小屋を作り動物実験を再開した。知人に酒の入った一升瓶を渡し、飲んで空になったら、神岡鉱山の廃水を一升瓶に詰めて返してもらうことを条件に、廃水を集めウサギに投与する実験をおこなった。この実験は何度も失敗した。慢性疾患を動物実験で成功させるには長い時間と根気が必要だった。子供も手伝ってくれて実験はしだいに成功に近づいていった。

萩野さんは、戦争中どんなことをしたのだろうか??

金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。

731部隊で性病や結核の人体実験をして、戦後政界ジープという右派の時局雑誌を発行した二木秀雄も金沢医科大学出身である。

三井造船防衛省から新型潜水艦救難艦を受注日本工業新聞

日本軍が中国で行った細菌戦

細菌戦パネル展731部隊のやった細菌戦

細菌戦被害地中国の旅